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私の知らない父の想い

月曜日担当の尾崎です。

 

前回は、妻(最初の)と出会ってから、

神戸と東京で6年間、

アプローチし続け、

ゴールインした奥に

あったものをお伝えしました。

 

妻への想いがあり、

まずは誰よりも彼女の応援者になり、

誰よりも彼女にとって大切な存在に

なろうと決意しました。

 

まさか、

それから6年も時間がかかるとは、

知る由もありませんでした。

 

時が熟すというか、

学校を出て、就職して、会社でも

仕入と卸営業という2つの能力が

自分のものになっていた時期でも

ありました。

 

仕事が確立することと

家庭を持つということ、

何か大きな流れの中で

決まって行ったようでした。

 

東京育ち、東京生まれの妻が、

神戸に片道切符で

嫁いで来てくれることになりました。

 

阪神淡路大震災の何年の前の神戸でした。

 

私は、神戸の街が大好きでした。

 

海があり、山があり、

大阪や京都とも違う文化があり、

とてもモダンで、高感度な街でした。

 

そんな神戸で、

大好きな仕事と最高のパートナーと、

暮らせるようになり、

とてもとても幸せでした。

 

大手の水産会社の子会社に私は、

所属していました。

 

その水産会社の創業一族の

発祥の地である明石の林崎海岸に、

社宅を決めました。

 

アパートからは、

海水浴場まで歩いて数分で行ける場所でした。

 

明石海峡が目の前に広がり、

海の向こうには、淡路島が一望できました。

 

明石の街には、

魚の棚という市場があり、

朝採りした地魚やタコが

売られています。

 

忘れられない思い出があります。

 

横浜から私の父が、

明石の新居にわざわざ一人で

訪ねて来てくれました。

 

当時父は62歳でした。

(あと3年で私もその頃の父と同じ年齢になります。)

 

以前にも、書きましたが、

昭和一桁の父は、とても寡黙な人です。

 

私も、父と語り合った記憶は、

ほとんどありませんでした。

 

父が来た日は、

私は同業者の方に、

接待していただき、深夜に帰りました。

 

その居ない数時間に、

父を迎え入れた妻を相手に、

一緒に魚の棚に、

魚を買いに行ったそうです。

 

父の父は、漁師なので、

父は市場に出かけるのが大好きなのです。

 

そして、帰って来てから、

トイレに立つ時間がないほど、

父は妻を相手に、

数時間、私の子供の頃のこと、

などなど。

 

ずっとずっと想い出を、

語り続けたそうです。

 

その話を、翌日、

妻から聴いた私は、嬉しかったですが、

本当に?という気持ちがありました。

 

それくらい、父は話さない人でしたから。

 

私の知らない父の一面を、

妻を通して垣間見ることができました。

 

私は、心の何処かで、

父から見たら、物足りない息子と思われていると

ずっと思っていましたので。

 

こんなにも、父の中で、

自分という存在があったということを

知ることが出来ました。

 

まだ、真我と出会う7年くらい前の話です。

 

(つづく)