· 

生命のルーツを辿る2

おはようございます。

月曜日担当の尾崎です。

 

 

いつもありがとうございます。

 

 

先週から、私のルーツをご紹介させていただいています。

 

 

YSコンサルタントに、所属する前は、

真珠を中心とした宝石の事業に携わっていました。

 

 

なぜ、沢山ある業種の中で、真珠・宝石を

生業(なりわい)としたか?

 

 

その理由が、両親と郷里にあります。

 

 

昭和20年代の中頃以降、

戦後の復興のために、

外貨獲得のために、

養殖真珠の海外への輸出が、

国策として、重点を置かれました。

 

 

海外から来るバイヤーが、購入する

商品代金を、前受け制度と言って、

必ず、入金済みの取引でしか、

輸出できないという特別に保護された制度がありました。

 

 

この制度が、あることによって、輸出業者は、いちげんの

お客様にも、安心して販売出来たわけです。

 

 

当時は、養殖真珠は、日本の特産品でしたので、

海外から大挙して、バイヤーが日本に押し寄せてきたわけです。

 

 

そんな時代に、志摩で教員の見習いをしていた父の元に、

大学出の将来の幹部が欲しいからと、

東京での求人の話がありました。

 

 

20代半ばの父は、きっと、ウズウズしていたんだと思います。

 

 

母と赤ちゃんだった長姉を、郷里に残して、

まずは、単身で東京の目黒にある個人経営の

真珠メーカーに就職しました。

 

 

水を得た魚のように、仕事の急所を吸収して、

1年間でその会社の番頭さんに成りました。

 

 

そして、周りの方の引き立てと、養殖真珠ブームに

乗じて、2年目には独立して、開業したそうです。

 

 

時代の寵児で、真珠業界で神童と呼ばれ、

あっという間に、事業を伸ばしたそうです。

 

 

そんな事業が好調な中、次姉と私と産まれました。

 

 

実は、幼少期の父の記憶は、本当に少ないのです。

 

 

若くして、事業で成功した父は、

夜な夜な夜の街に繰り出していたそうです。

 

 

今日は、銀座のクラブ、翌日は、向島で芸者さんのいる所。

 

 

日曜日は、ゴルフ。

 

 

空いている時間は、麻雀。

 

 

そんな父でしたから、家族と過ごす時間は、

本当に僅かでした。

 

 

もっと父と接したいという想いが、

子供ながら、私の心の奥にいつもありました。

 

 

(来週に続く)

 

YSコンサルタント事務局

 

尾崎 隆博