おはようございます。
月曜日担当の尾崎です。
いつもありがとうございます。
先週のつづきを書かせていただきます。
私の生まれた頃の我が家の背景を書かせていただきました。
事業を順調に伸ばし、真珠業界の神童と呼ばれた父。
目黒に自宅を立てました。
1階が、我が家で、2階は会社の作業場でした。
伊勢志摩の郷里から、父母の親戚が、中学を卒業して、
父の経営する養殖真珠の加工販売会社に、
たくさん働きに来ていました。
ファミリービジネスですね。
時流に乗って、今から55年前に、
月商8千万商っていたそうです。
まだ、東京でも、テレビが珍しい頃に、
テレビを買って、運転手さんと自家用車があり、
お手伝いさんも3人いました。
姉二人の次に、末っ子長男として、
昭和35年3月に生れました。
事業もプライベートも、やりきっていた父ですが、
私が産まれた時は、大層、喜んでくれたそうです。
幼い頃の記憶は、実は、あまりないんですね。
お金はあったようですが、父の夜遊びが過ぎて、
母とは、良く喧嘩していたらしいです。
酷い時は、朝帰りの父に、
母は食器の皿を投げつけていたそうです。
私は、今でこそ、太っていますが、
1歳で気管支喘息に罹患して、
ひ弱な子供でした。
少し走ると、真っ青になって、
ゼイゼイと1時間くらい、
苦しんでいました。
好き嫌いが多く、食べることも
好きではありませんでした。
運動も出来ず、幼稚園も休みがちでした。
そんな私を、両親が心配して、
この頃から、夏休みになると、
賢島にあった真珠養殖場に、
夏休み中預けられるようになりました。
ここには、母方の祖母と母の兄に
あたる叔父さんたちがいました。
祖母の家の庭の目の前は、英虞湾があり、
真珠の養殖筏がたくさんありました。
夏休み中、そこで同い年の従兄弟と二人で、
朝から、夕方まで、海に浸かっていました。
夜になると、叔父さんに養殖筏の上で、
集魚燈をつけてもらいました。
6歳くらいだった私たちは、
そこで、ゴザに寝そべり、
満点の星を眺めていました。
5分に一度くらい、夜空にスーッと
流れ星が大きく流れていきました。
自然の中で、毎日毎日過ごす中、
だんだんと丈夫な体になっていきました。
(続きは来週)
YSコンサルタント株式会社
事務局
尾崎 隆博
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