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生命のルーツを辿る4

おはようございます。

 

月曜日担当の尾崎です。

 

いつもありがとうございます。

 

 

先週からの続きです。

 

 

来る日も来る日も、朝から、夕方まで、

魚釣りやゴムボードを漕いだり、

海遊びに、夏休み中興じていました。

 

 

Tシャツに、海水パンツ、ビーチサンダルに、麦わら帽子。

 

 

夏休み中、この姿です。

 

 

一夏の間に、日焼けして、何回も皮がむけて、

8月末には、真っ黒でした。

 

 

小学校1年の夏休みが終わり、叔父に連れられて、

志摩から東京に帰りました。

 

 

賢島から、近鉄に乗って、

名古屋で乗り換えて、東京駅に着きました。

 

 

もう夜でした。

 

 

そして、叔父が連れて行ってくれたのは、

生まれ育った目黒の自宅ではなく、青山の家でした。

 

 

大きな家だったのが、こじんまりした佇まいの2階建でした。

 

 

何もl聞かされていない私は、

何が起きたのだろうと戸惑いがありました。

 

 

大好きだった犬がいなくなっていました。

 

 

母に犬は、どうしたの?と聞くと

引越しのバタバタのうちにいなくなってしまったと言われました。

 

 

家が突然、引っ越したことよりも、

可愛がった犬がいなくなってしまったことに動揺している私でした。

 

 

そして、9月になり、転校先の小学校に通うことになりました。

 

 

家からは、子供の足で歩いて10分くらいでした。

 

 

転校生として、紹介されました。

 

 

真っ黒に日焼けしている私を見て、

あまりの黒さに皆がびっくりしていました。

 

 

随分経ってから、分かったのですが、

夏休みの間に、父の会社は倒産していたようです。

 

 

たくさんいた従業員の人はいなくなり、

父や母の兄弟だけが残り、こじんまりとした形で、

商売を続けていました。

 

 

目黒の家は人手に渡り、

青山の借家暮らしが始まりました。

 

 

母は気丈なので、幼かった私が心配しないように、

何事もなかったように接してくれました。

 

 

二人の姉は、私立から、公立の学校に変わっていました。

 

 

昭和41年は、東京オリンピックが終わり、

世界的な養殖真珠ブームが沈静化して、

大増産した日本の養殖真珠は、大暴落したのです。

 

 

父は、加工販売ではなく、志摩と沼津で、

真珠養殖も手がけていましたので、

真珠が大暴落して、あえなく倒産してしまったのです。

 

 

いつもいなかった父が、家にいるようになり、

昼間からお酒を飲んでいることも多くなりました。

 

 

当時の父は、37歳、38歳だったと思います。

 

 

子供心に、そんな父の姿を見て、

とても不安でいっぱいでした。

 

 

母は、変わりなく、家族のために、

一生懸命、いろいろなことをやってくれました。

 

 

転校したクラスにも、すぐには馴染めず、

学校に行くのが、嫌で嫌で仕方ありませんでした。

 

((続きは来週)

 

YSコンサルタント株式会社

事務局

尾崎 隆博